エアライン, 空港, 解説・コラム — 2021年3月8日 23:40 JST

仙台から1時間かからない山形空港活用 特集・航空関係者の3.11(1)JAL 川瀬雄大さん

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 東日本大震災から10年。2月13日夜に最大震度6強と再び大きな地震が東北地方を襲った。10年前と異なり津波の被害がなかったものの、東北新幹線が一部区間で運休するなど、公共交通機関にも影響が及んだ。

 10年前に高さ3.02メートルの津波が到達した仙台空港も、13日は震度5強を観測。ターミナル内を歩くとひび割れが生じた部分もいくつかみられ、揺れの大きさが伝わってきた。運航に支障が出なかったこともあり、航空各社では運休する東北新幹線の代替手段として、東北方面への臨時便運航や、定期便の機材大型化が即座に決まった。

 公共交通機関にとって、自然災害時への即応は不可欠なものだ。この特集では、航空関係者と東日本大震災とのつながりを取り上げる。

JAL路線事業戦略部部長の川瀬雄大さん。3月11日は出張で仙台を訪れていたが山形空港から帰京した経験が臨時便を考える上で役立った=PHOTO: Tadayuki YOSHIKAWA/Aviation Wire

 1回目の今回は、日本航空(JAL/JL、9201)路線事業戦略部の部長として国内線の路線計画を担当する川瀬雄大さん。10年前も同様に国内線計画を担当しており、仙台便の再開や臨時便の設定に奔走した。

 川瀬さんは震災当時、3月10日から11日まで1泊2日で仙台空港へ出張しており、夕方の便で仙台を離れる前に地震が起きた。空港のスタッフと乗客や避難してきた地元住民のケアにあたり、3日後の14日に山形空港から帰京して職場に復帰した。この時の体験が、臨時便を考える上で大いに役立ったという。

 航空関係者による東日本大震災の証言は、空港で働く人や運航便に乗務していた人のものが比較的多い。では、復興に不可欠だった臨時便を設定していた人は、どのような状況下で判断していたのだろうか。

—記事の概要—
山形空港なら1時間かからない
旧JAS機が活躍
4月13日に再開初便
受験生も乗った2月の臨時便

山形空港なら1時間かからない

 「3月11日は、たまたま仙台にいました。ERJが増えていく時に、どの程度のグランドタイムが適正かを見ておきたかったので、伊丹から仙台へ実際に乗って行きました」と、2009年から導入が始まったリージョナルジェット機、エンブラエル170(E170)が実際にどのように運航されているかを確認しようと仙台を訪れた。

仙台空港へ着陸するジェイエアのE170=11年9月11日 PHOTO: Tadayuki YOSHIKAWA/Aviation Wire

東日本大震災当日の様子を語るJALの川瀬さん=PHOTO: Tadayuki YOSHIKAWA/Aviation Wire

 ほかにもいくつか用事があったが予定より早く終わり、新千歳行きに乗ろうとしたが満席で乗れず、夕方の伊丹行きに乗ることにした。午後2時46分。地震が来た時の様子を「最初は大通りをトラックが通っているような細かい揺れで、その後に縦揺れが2、3度あり、突き上げられるような状態で、その後は横揺れがものすごかったです」と、川瀬さんは発災時の様子を語った。ターミナル3階でイスに座ってその後の予定などを考えていたところ、大きな揺れに遭遇した。

 この時は川瀬さんが搭乗予定の便も含め、航空会社の運航便が1機も駐機していない状態だった。津波は30分後にはターミナル1階まで到達したという。

 発災から2日後の13日には、自衛隊が空港の制限エリアに作った道を公民館などへ向かうバスが走るようになり、ターミナルに取り残された人の誘導を空港スタッフらと対応。14日朝には仙台に実家があるスタッフが帰宅し、空港所長ら単身赴任組が最後まで残ることになった。

 川瀬さんも14日の山形発羽田行きで会社に戻り、臨時便の設定などの仕事をする必要があった。しかし、空港と仙台駅を結ぶアクセス線が不通になってしまったことから、仙台駅までは所長に車で送ってもらい、仙台駅からはバスで山形空港へ向かった。

 「山形空港までのバスが動いていたのが幸運でした。この時の経験で、山形を中心に臨時便を飛ばそうと考えました」と川瀬さんは話す。「東北新幹線が止まり、高速道路が寸断された中、何があるか。『山形空港ならバスで1時間かからないよ』と言われ、これなら便利なのではと思いました」と、山形空港と仙台の距離感を自ら体感したことが役立った。

 当時JALの羽田-山形線は1日1往復だったが、多い時で4-5往復まで増便。「東京へ帰って最初の仕事が、山形線の増便でした」と、仙台空港の運用が再開するまで、山形空港が重要な役割を果たした。

 14日に帰京した川瀬さんは、翌朝から臨時便のダイヤを設定する仕事が続いた。「花巻や青森も臨時便を運航しましたが、山形が時間的にもお客様が動きやすく、物流でも使いやすいという確信がありました」と、土地勘を得たことで迷うことなく山形線を多めにする判断を下せた。

旧JAS機が活躍

 臨時便を飛ばし始めると、新たな課題が出てきた。羽田-山形線や花巻線などにマクドネル・ダグラス(現ボーイング)MD-90型機(2クラス150席:クラスJ18席、普通席132席)を投入していたが、「飛行機が足りなくなってきてしまいました。そこで退役が決まっていたA300がまだ2機ほど残っていたので、使えないかという話になりました」と、MD-90と同じく旧日本エアシステム(JAS)が導入したエアバスA300-600R型機(2クラス290席:クラスJ34席、普通席256席)を活用する案が浮上した。

東日本大震災後の臨時便で活躍したMD-90=11年7月 PHOTO: Tadayuki YOSHIKAWA/Aviation Wire

 「売却先との交渉を調達部門に依頼し、(機種移行前の)パイロットを確保できるかを確認したところ、2カ月くらいは運航できそうだということになりました。結局4月末くらいまで羽田-青森線などにA300を投入し、元々入っていたMD-90を山形に充てるといったやりくりをしていました」と、川瀬さんは振り返る。

 「通常は事業計画を半年ごととかで決めますが、あの時は1日にごとに百何十機の飛行機の回し方が変わっていました。仙台空港が使えないということは、同じ機材で飛ぶほかの路線にも影響が出ます。まず機材繰りが書いてある大きな紙を並べて、仙台に×印を付けるところから始めました。仙台の代わりにどこでつなぐのかを考え、余った機材でどれだけ翌日の臨時便を飛ばせるかを考えていました」と、ひと言で臨時便を飛ばすといっても、さまざまな調整があってこそのものだ。

 「仙台に飛んでいた機材は意外に多くて、小型機のERJやMD-90、737-800は日ごとに運航パターンが変わっていました。各所に毎日『これでできる?』と臨時便が運航できるかを確認していました」という川瀬さんは、「仙台の復活は小型機でしかできないという制約もあり、小型機を復興関連の路線に投入できるかは気を遣っていました」という。

 川瀬さんは自らも含め、航空会社のダイヤ担当は「なんとか不可能を可能にしようと、職人魂を持っていると思います」という。当時は7-8人で国内線のダイヤを担当しており、さまざまな制約を克服して臨時便を飛ばし続けた。

羽田空港を離陸するJALのA300-600R=11年5月8日 PHOTO: Tadayuki YOSHIKAWA/Aviation Wire

4月13日に再開初便

 では、仙台空港の発着便はいつから運航再開の検討が始まったのだろうか。「私が仙台から戻った時には、すでに議論が始まっていました。いつから何便飛ばせるのか、機材は何を使うのかと、羽田から飛ばしたいけど発着枠がない、といった話が出ており、臨時便の設定と並行してシミュレーションをしていました」と川瀬さんは話す。

仙台空港に着陸するJALエクスプレス(現JAL)の737-800。再開初便も737が投入された=11年5月3日 PHOTO: Tadayuki YOSHIKAWA/Aviation Wire

 発着枠の配分を決める国土交通省航空局(JCAB)とも臨時の枠を調整し、仙台空港の準備も整った2011年4月13日、再開初便となる臨時便、羽田発仙台行きJL4721便(ボーイング737-800型機、登録記号JA302J)が運航された。

 「羽田から仙台に着くと仙台-伊丹を2往復して羽田に帰るスケジュールでした」。再開当初は仙台発着便を1日6便(往復)しか飛ばせず、JALと全日本空輸(ANA/NH)が半分ずつ運航し、JALが羽田1往復と伊丹2往復、ANAは3往復すべてを羽田便とした。

 「仙台は大阪との結びつきが強い地域です。運航可能な便数が決まった後、社内でどこに飛ばすかを考えた際に、総流動を考えると羽田以外に伊丹も絶対必要だ、という意見が出て決まりました」と、東京と大阪2地点が選ばれた経緯にふれた。

公共交通機関としての役割

 東京へ戻った川瀬さんは、4月の運航再開までに何度か仙台空港へ足を運んだ。空港と仙台駅を結ぶバスの輸送容量や乗客を待たせるスペースを考えると、2時間に1便くらいであれば、小型機で運航できそうだと国交省との話し合いで見えてきたという。当時は日没後に運航できなかったので、空港の運用時間を考えると1日6便(往復)が限界だった。

仙台空港に掲げられた寄せ書き=11年5月3日 PHOTO: Tadayuki YOSHIKAWA/Aviation Wire

 「この時も羽田から山形経由で仙台空港に向かいました。乗ってみると想像以上にネクタイを締めたビジネスマンの方が多く、あとは日本赤十字や工事関係といった復興の仕事と思われる方でした。山形発ではご家族連れも乗っていて、避難される方だったのでしょう」と、どのような人が利用しているのかも気に掛けて乗っていたという。

 JALは中越地震の際にも臨時便を運航しており、「絶対1日4便、5便は必要という認識は、新潟の経験で社内にありました」。羽田-山形線であれば、1機を臨時便に投入できれば1日4便程度は運航できるとして、「難しいことを考えず、まず山形に1機入れよう、と話していました」と、徐々に社内で共通認識ができていった。

 「ダイヤ担当なら、仙台がだめなら山形にしようと誰もが考えると思います。しかし我が身で起こると、山形から東京に向かおうという発想は頭にありませんでした。あの体験があったからこそ、山形に資源を集中しようと判断できました」と川瀬さんは話す。

 震災対応の臨時便は、2011年のゴールデンウイークがひとつの区切りとなり、1年後にはほぼ通常運航に戻ったという。東北新幹線が再開すると、予約状況に応じて臨時便の運航を終了していく段階に入った。

 「もうけだけを考えたら飛ばさないほうがいい便もあります。しかし、復興に必要なものというのは、社内で上から下まで徹底していました」と川瀬さん。公共交通機関としてのJALの役割については、当時路線統括本部長だった植木義晴会長がよく言及していたという。

 「不幸中の幸いでした。機材にしろ、すべてのピースがうまくはまったと思います」と、川瀬さんは震災対応を振り返った。

受験生も乗った2月の臨時便

 震災対応の経験は、新型コロナの影響で大量減便をせざるを得ない際にも役立った。川瀬さんは、2012年4月からは米州の販売部門や、国際線計画を担当。コロナによる影響が強く出始めた2020年4月に現職となり、9年ぶりに国内線の面倒を見ることになった。

仙台空港へ着陸する羽田発JL4721便。2月13日に起きた福島県沖地震の対応でも10年前の経験が役立った=21年2月19日 PHOTO: Tadayuki YOSHIKAWA/Aviation Wire

東日本大震災の経験は新型コロナ対応にも生かせたと語るJALの川瀬さん=PHOTO: Tadayuki YOSHIKAWA/Aviation Wire

 「震災対応を経験したおかげで、部下が何に困っているかや、どこと調整すればいいかはすぐにわかりました」という川瀬さんは、ダイヤ作りは部下に任せ、部長として国交省や自治体から協力を取り付けることに奔走した。

 そしてこの取材の直後、福島県沖を震源とする地震が2月13日に発生。川瀬さんは再び臨時便の対応に追われた。東北新幹線が一部不通となったため、羽田-仙台間をはじめ、多くの臨時便が東北各地へ飛んだ。

 川瀬さんは「ビジネスのお客様だけではなく、東北各地から首都圏の大学を受験される学生さんの利用も多く、交通インフラを支える社会的な意義を感じています」と話していた。

 全国には97の空港があるが、便数の少ない空港は廃止すべきという意見も耳にする。しかし、東日本大震災では東北最大の仙台空港が甚大な被害に遭い、山形をはじめ近隣の空港が果たした役割は極めて大きい。今後は災害など非常時に備える意味でも、普段は羽田便がない空港でも季節便を運航して練度を維持したり、新たな利用者層を発掘するなど、これまでとは異なる視点で地方空港のあり方を考えていくべきだろう。

第2回につづく

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