エアライン, 解説・コラム — 2012年10月4日 21:00 JST

「壊れない」「止まらない」業務機からのパラダイムシフト──雲上のiPad活用術(3・最終回)

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 航空会社では世界初となるiPad大量導入を実施した全日本空輸(ANA、9202)。4月から客室乗務員約5400人全員にiPadをひとり1台配布し、9月からは一部の運航乗務員による運用検証もスタートした。

 連載「雲上のiPad活用術」では、客室乗務員への導入(第1回)、運航乗務員への導入(第2回)と各現場での事例を紹介してきた。最終回の今回は、業務プロセス改革室開発推進部主席部員の林剛史さんに、iPad導入の経緯と今後について伺った。

iPadによる業務改善プロジェクトを推進したANAの林さん=12年9月 PHOTO: Tadayuki YOSHIKAWA/Aviation Wire

客室乗務員の育成早期化

iPadを活用してブリーフィングを行うANAの客室乗務員=12年9月 PHOTO: Tadayuki YOSHIKAWA/Aviation Wire

 国際線事業を強化するANAにとり、ひとりの客室乗務員により多くの路線や機種に乗務してもらうことは、経営規模を拡大する上で重要なポイントだ。これに加え、「アジアNo. 1の航空会社」を目標に掲げる同社にとって、サービス内容の拡充も迫られる。

 「客室乗務員により早く知識を吸収してもらい、業務品質を維持・向上するには、紙マニュアルでは限界を感じていました」と林さんは語る。重さ2.1キロ、1000ページにおよぶ紙の乗務マニュアルは、2カ月に1回100ページほどの改訂がある。紙マニュアルの電子化でコスト削減は実現できるが、加えて経営側からは国際線の事業規模拡大に応じた客室乗務員の育成早期化につながる業務改善が求められたという。

 マニュアルを正確に把握し、行動することが求められる客室乗務員。コストを抑えつつ、使いやすい端末選びが始まった。

なぜiPadが選ばれたのか

 客室乗務員のiPadプロジェクトは、2011年4月から企画検討がスタート。3年前には、業務改善の選択肢としてノートパソコン(PC)が検討されたという。

従来使われていた紙の乗務マニュアル=12年9月 PHOTO: Tadayuki YOSHIKAWA/Aviation Wire

 しかし、当時の小型ノートPCは20万円前後と高価で、Windows OSの起動も時間がかかった。バッテリーでの稼働時間も、業務運用で必要とする時間には至らなかった。

 紙のマニュアルを置き換える以上、緊急事態にも対応できなければならない。

 例えば、「急病人などが出た場合、マニュアルを参照して応急処置を施す必要がありますが、PCが立ち上がらなかったので対応が遅れた、では困ります」と、当時のノートPCでは実際の業務運用へ適合しなかったと振り返る。小型端末としてはPDA(携帯情報端末)が存在したが、画面が小さすぎるなどの理由で導入には至らなかった。林さんが求める端末が見あたらない中、10年1月に初代iPadが登場する。

 11年4月のプロジェクト開始時、iPadやAndoroid OS搭載機など数種類のタブレット端末を検証した。iPadを選定した理由として「実際の業務運用での適合性です」と説明する。

 林さんはプロジェクトに参加している客室乗務員のプロジェクト担当者に、客室乗務員の1日の業務プロセスにiPadを導入することで、何が、どう変わるかを可視化してもらった。iPadを導入すれば滞在先でも教材をダウンロードできるなど、導入前後の状況を明確にした上で、実機による検証を行った。

 業務での使い勝手の評価項目例として、機内で素早く見たいページにたどり着けるか、暗い機内で視認性が落ちないかなどを挙げた。検証時には、10ページめくるのに何秒かかるかなど、具体的な項目を設定した。また、バッテリーでの稼働時間も重要項目の一つであった。客室乗務員は国内線では平均1日3便、国際線は最長でニューヨークから成田までの14時間半を乗務する。常にiPadを使用するわけではないが、乗務時間中は稼働するのが最低条件だ。

 これらの条件を満たしたのがiPadだった。「見栄えがいい、色合いがスタイリッシュ、ではなくて実際の業務にしっかりフィットするものがiPadでした」と、林さんはiPadの性能を評価する。

 業務運用での適合性だけではなく、セキュリティー面も林さんは評価した。当時のアンドロイド端末はメモリが暗号化されておらず、端末が盗難に遭った際などにマニュアルのデータが流出してしまう恐れがあったからだ。こうした検討を重ねた結果、約6000台のiPad 2導入が決定した。

iPadの導入スケジュール(林さん提供)

業務機の価値観からの脱却

 11年度は海外のベンダーから航空業界向けのiOSアプリケーションが揃いつつある時期でもあった。航空会社の業界標準になる可能性を持っていた点も、評価につながったと林さんは指摘する。

 「マニュアルを電子化して終わり、であれば加点にはなりませんが、将来性を考えるとしっかり見るべき点だと考えました」。継続性のある業務改善を行う上で、実行確度が高い点も選定理由になった。

 また、「壊れない」、「止まらない」といった業務機の価値観や概念からの脱却も大きなポイントだったという。コストダウンを進める上で、これまでと同じ価値観でシステムを構築しても、大きなコスト削減は見込めないからだ。

 「自前主義から利用主義に」と説明する林さんによると、iPadで利用するアプリケーションの開発期間はわずか1カ月ほど。ANA側の作業は、環境設定など最低限に抑えたという。故障が生じた時は、予備機に交換するなどの運用で対応しているそうだ。

 「今あるものをいかに利用してやりたいことを実現するか、壊れるものとうまく付き合う方法を考えないと、コスト構造を今以上に作るだけです。iPadは“業務のサポーター”でしかない」と林さん。業務機もいつかは故障することを考えれば、iPadなどの民生機を賢く使いこなすことが大幅なコストダウンにつなげられると言える。

 とはいえ、航空機ではミッションクリティカルな分野も存在する。こうした分野との線引きも検討していくという。

感謝、感激を超えた感動

 ANA社内でのiPadを用いた業務改善は進みつつあるが、林さんは「お客様のためにならないと意味がない」と断言する。今後は乗客の要望に応じるサービスや、嗜好に基づく提案型サービスを提供できるよう、プロジェクトを進めたいという。

 iPadによる乗客の旅程全般をサポートできる仕組みを林さんは思い描く。乗客が好きなお酒を事前に把握したうえで薦めることや、乗り継ぎがある場合の到着空港の導線案内などが考えられるそうだ。また、空港の係員との情報共有など、組織を横断した運用も視野に入れる。

 「安心快適な空間で過ごしていただくこと。そして次も乗りたい、と思っていただけることです。当社社長(伊東信一郎社長)もよく言っている、“感謝、感激を超えた感動”をiPadを通じてお届けできるようにしたいです」と思いを語る林さん。

 乗客が知りたい情報や欲するサービスを提供するだけではなく、乗客自身は気づいていなかったが実は知りたい情報だった、こういう対応をして欲しかった──。こうしたサービスを受けられる日が来るのも、遠くない未来なのかもしれない。(おわり)

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