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「パニックになる余裕なかった」特集・航空関係者の3.11(2)ANA 日通藤本さん・髙橋さん

 航空関係者に東日本大震災当日の様子を聞く「特集・航空関係者の3.11」。2回目は、仙台空港で全日本空輸(ANA/NH)の空港業務を受託している日本通運の方に話を伺った。

ANAから仙台空港の空港業務を受託している日本通運の藤本孝誠さん(左)と髙橋美紀子さん。ともに地震発生時は休憩中だった(ANA提供)

 仙台空港営業第一課の藤本孝誠課長は当時ステーションコントロールを、髙橋美紀子主任は旅客取扱業務を担当していた。

 ターミナルから外に避難したものの津波が迫りつつあり、誘導時はパニックになる余裕もなかったという。藤本さんと髙橋さんにビデオ会議形式で取材した。

—記事の概要—
パニックになる余裕すらなかった
ものすごい地響き
なくなったものを作り上げられるんだ
必ず立ち直れる

パニックになる余裕すらなかった

 2011年3月11日午後2時30分すぎ。お昼休みに入った髙橋さんは、ターミナル2階の休憩室にいた。この日はお昼から最終便までの遅番勤務だった髙橋さんは、「お茶漬けを食べていたら、お茶漬けがひっくり返ってしまいました。立っていられないほどの揺れで、大きな食器棚がぐらんぐらん揺れて、すぐ停電になり、自分だけ揺れているのか、一瞬よくわからない衝撃でした」と、想像を超える揺れの様子を詳細に語った。

東日本大震災で津波被害に遭った仙台空港=11年5月3日 PHOTO: Tadayuki YOSHIKAWA/Aviation Wire

 「揺れがちょっと収まってからカウンターに出てお客様を誘導しようとしたら、お客様も係員も床にしゃがんでいました。その後建物が倒れるかもしれないから外に避難しようとなり、一度外に出ました。その後、どなたかが『津波がくるぞ』と叫び、3階へ避難しました」と、津波が迫る中、髙橋さんたちは空港利用者をターミナル内で屋根のある場所ではもっとも高い3階まで誘導した。

 「何が起こっているのかがわからず、みんなで避難していました。恐くて動揺している方はいらっしゃらず、みんなで列を作り、スムーズに避難していました。とにかくお客様を誘導して、動くのに必死でした。立っていられないくらいの揺れが続き、パニックになる余裕すらなかったです」と、高いところへ誘導することで頭がいっぱいだった。

 しばらくすると、海側から津波が近づいてくるのが見えた。「津波が来た後は3月なので雪が降ってきて暗くなりました。2階はギリギリ浸水しなかったので、事務所に戻りました。お客様は2階と3階にいらっしゃいました」と、徐々に館内は暗くなっていく。周辺住民も空港へ避難し、高齢者も多かった。髙橋さんらは交代で懐中電灯を持って巡回し、トイレに誘導したりする状況が3日目の朝まで続いたという。

 空港では携帯電話の電波がつながらず、停電のため充電できないバッテリーも尽きてしまった。「家族や親しい人の安否がわからなかったですが、逆に目の前のことに専念できました」と髙橋さんは話す。3日目の朝に帰宅した髙橋さんたちは、集まれる人は1週間後くらいに空港に戻り、置いたままだったかばんなどを持ち帰った。

ものすごい地響き

 当時ステーションコントロール担当だった藤本さんも、地震が起きた時はターミナル1階の休憩室で休んでいた。

 「2日くらい前にも地震があったので、最初はまたすぐ終わるかなと休み続けていたんです。しかし、これは尋常じゃないと思い、駐機場へ抜けるドアから同僚と外へ避難しました。ものすごい地響きで、ギシギシいっていました」と、1階にいたため大きな地響きを耳にしていた。

ターミナル1階は津波にのまれステーションコントロールの部屋も天井まで水につかった=11年5月3日 PHOTO: Tadayuki YOSHIKAWA/Aviation Wire

 揺れが収まってからステーションコントロールの部屋に戻ると、パソコンが床に落ちるなど部屋のものが散乱していた。到着ロビーに出て、館内の利用者や同僚と一度外に避難した。

 藤本さんによると、地元の秋田では日本海側には津波が来ないと言われて育ったこともあり、最初は太平洋側の仙台空港でも津波が来るのかは半信半疑だったという。「津波が来るぞと言われ、本当かなと思いつつ、近くの施設から避難された方などを担ぎ上げたりして、とにかく3階に避難しました」(藤本さん)。

 発災からしばらくすると米軍による空港の復興支援が始まり、駐機場などに流されてきた自動車などが片付けられ始めた。藤本さんたちは、運航再開を視野に事務所の片付けをしていたが、「無線や航行援助施設、灯火は大丈夫なのか、という思いはありました」と、想像よりも速いペースで運航再開に向けた作業が進んでいった。

なくなったものを作り上げられるんだ

 仙台空港の運航再開は、33日後の4月13日。初便は到着が羽田発NH1501便、出発は羽田行きNH1502便だった。到着口付近に仮設のカウンターが設けられたが、髙橋さんは「半年くらいは飛ばないのかな、と思っていました。全国から応援が入り、なくなったものを作り上げられるんだと、逆に感動しました」と、一丸となって早期再開できたことを喜んだ。

運航再開後の仙台空港周辺は津波の爪痕が残っていた=11年5月3日 PHOTO: Tadayuki YOSHIKAWA/Aviation Wire

出発や到着案内はしばらく紙を貼りだして対応していた=11年6月11日 PHOTO: Tadayuki YOSHIKAWA/Aviation Wire

 藤本さんによると、1階のステーションコントロールの部屋は天井まで浸水してしばらく使えず、2階の事務所に間借りして業務を再開したという。

 仙台便再開に向けた準備と並行し、ANAは山形空港発着の臨時便を3月29日から5月22日まで運航。新千歳と伊丹、中部の3路線で、計195往復390便を運航した。藤本さんはその間、主に山形へ出向いていた。

 ANAが一度撤退した空港だったこともあり、業務で使うカンパニー無線などが整っているかが不安だったが、すべてそろっていて感動したという。PBB(搭乗橋)は使えたものの、臨時便の手荷物は手持ちで運んだりして対応した。

必ず立ち直れる

 震災から時が過ぎ、当時の空港の様子を知らない社員も増えつつある。新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の感染拡大前に訪日客でにぎわっていたころは、外国人から津波について質問されることも多々あったという髙橋さんは、新入社員にも避難誘導など当時の体験を話している。

佐賀空港から仙台空港に贈られた寄せ書き=11年5月3日 PHOTO: Tadayuki YOSHIKAWA/Aviation Wire

 「仙台空港は東北出身の人が多く、新入社員とも自然と震災の話が出ますね。コロナもそうですが、いつ何が起こるかわからないので、日ごろの備えが大切だと話しています」(髙橋さん)。

 そして、髙橋さんが大切にしていることがある。「災害が起きても、必ず立ち直れるということです。みんなが協力すれば、元々あったもの以上のものが作り上げられると思います。後輩たちの経験に少しでもつながるよう、指導の材料にしていきたいです」と話した。

最終回につづく [1]

関連リンク
全日本空輸 [2]
仙台国際空港 [3]

特集・航空関係者の3.11(全3回)
(1)仙台から1時間かからない山形空港活用 JAL 川瀬雄大さん [4]
(終)「自分たちはもらっていい立場なのか」仙台国際空港会社 片岡直人さん [1]

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