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「青でも赤でもなくピンクで行くんだ!」特集・ピーチ”空飛ぶ副社長”角城機長ラストフライト(前編)

 2002年10月に、北朝鮮拉致被害者5人が帰国する際の特別機など、全日本空輸(ANA/NH)で数々の重要フライトを担当し、現在はピーチ・アビエーション(APJ/MM)で副社長を務める角城健次機長が、48年間におよぶパイロット人生の区切りを12月3日に迎えた。航空法により、旅客機の機長としては定年を迎える68歳の誕生日を2日後に控えたこの日、角城さんは関西発宮崎行きMM189便と折り返しの宮崎発関西行きMM190便に乗務し、ラストフライトのMM190便には妻の邦子さんも乗客として搭乗し、関空へ向かった。

宮崎空港で最後の出発準備を進めるピーチの角城さん=19年12月3日 PHOTO: Tadayuki YOSHIKAWA/Aviation Wire

角城さんは航大卒業後ANAに入社しピーチの副社長を務めている=19年12月3日 PHOTO: Tadayuki YOSHIKAWA/Aviation Wire

 大阪府出身の角城さんは、国の航空大学校を卒業後、ANAに1974年4月入社。戦後初の国産旅客機である日本航空機製造YS-11型機や、ボーイング727型機、737、767、777に乗務し、2011年6月からは同じくANAホールディングス(ANAHD、9202)傘下で就航前のピーチに運航部長兼乗員課長として転じつつ、エアバスA320型機を機長として操縦した。

 2012年7月から取締役として安全統括管理者と運航部長、2016年10月からは副社長として、主に安全運航に携わってきた角城さん。しかし、年齢を考え、一度はピーチ行きを断っていた。一定以上の大きさの民間機は、操縦資格(ライセンス)が機種ごとに異なり、試験に合格しなければならない。ボーイング機を乗り継いできた角城さんにとって、初のエアバス機への移行はかなりの負担だ。

 当時角城さんは大阪乗務センターの所長で、ピーチに適した人材を思案していた。

 「2011年3月、A320のライセンスを持ってなかった。当時のANAは54歳以上は機種移行せず、定年まで飛び続けていました。年齢を考えると自分は蚊帳の外で、A君がいいかな、B君もいいな、と考えていました。ところが上司から『角城、おまえ行け』と言われましてね。59歳6カ月。しかもA320(のライセンスを)持ってない(笑)。一度は断りましたが、2週間後に上司である本部長から『今から取ればいい』と言われ、決心しました」と、世話になった上司の説得に応じた。

 「あの人に言われて引き受けましたが、今日現在はいい仕事をもらったと思っています。ほかの本部長だったら断っていたかもしれません」と、静かに振り返った。

—記事の概要—
井上CEO「希望の光が差し込んだ」
初便は部下に

井上CEO「希望の光が差し込んだ」

 「角さんと言えばこのえびす顔。いつもにこやかにされているので、すごい方だと思っていない人もいるかもしれない(笑)。あの角さんがピーチに来ていただけると聞いた時の喜びようは、誰にも言っていないけど、ものすごくありがたかった。大きな期待と不安の中、希望の光が差し込んだ」

ラストフライトを終え関西空港のオフィスに戻った角城さんの功績をたたえる井上CEO(左)=19年12月3日 PHOTO: Tadayuki YOSHIKAWA/Aviation Wire

 同じくANA出身の井上慎一CEO(最高経営責任者)は、ラストフライトを終え、オフィスに戻ってきた“角さん”こと角城さんが、運航部長として着任すると知った時の気持ちを、出迎えた社員にこう話した。

 今では関西を代表する企業とも言えるポジションに立つピーチ